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2025.11.3

日本人と英語第45回

日本人と英語第45回

ぽちっト神戸掲載「日本人と英語」第45回

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鈴蘭台駅前教室講師 前島朋子

 

 

朋子という自分の名前が、ずっと嫌いだった。家族はみな私を「ともこさん」と呼び、父や母はときおり「ともこちゃん」とも呼んだ。古臭くて嫌だから、他の名前が良かった。弟たちには父の名前から一文字取って「憲」が付いていて、いかにも一族らしい感じがして悔しかった。近所のお友達がつけてくれたニックネームがかっこいいから気に入っている、おうちでも呼んでほしいと言うと、父は「ええ名前じゃないのう」と憮然とした顔で、首を横に振った。私は口をへの字に結んで悔し涙をこらえた。わしが付けた朋という漢字は、真の友という意味なんじゃ。それはお月さまではなく人の「⺼(にくづき)」である。同じにくづきの偏と旁が左右対称に2つ並んでいるのは、対等な友を得るという意味でもあり、2人で一つを成すという意味でもある。凡そ漢字というものは古代から5万字は下らないが、その中で左右対称な文字は林、比、朋だけであり、純粋に左右の形が完全に一致するのは朋だけなのだ。すなわち唯一無二の稀有な性質の字であり、「ともこ」という音にも日本古来の特別な言霊があるのだ。しまいに父は、わからんじゃろうがの、と言って黙ってしまった。そんな父にはお友達が多いようには思わなかったし、転校ばかりしていた私には仲良しのお友達は滅多にできなかった。それどころか、変わっている、男みたい、ブスだヘンだと言われてすぐに喧嘩になり、ますます友達なんかいらんわ、と思った。イギリスでは「私の名前はトモコです。トモの意味はfriendで、コはchildです。」と自己紹介したが、トモコはいつしかトミーコゥやトマートゥになり、寮生活で非情な友人の仕打ちに遭っては、父の付けた名前を呪った。友のいない子の朋子ですと言う方が、よっぽど似合っとるわ、と恨んだ。呉の実家には父が高校生の時に書いたという立派な表装の掛け軸が床間に飾ってあった。隷書の難しい漢字がたくさん書いてあり、しかし最初の「天地」だけは読めた。全部で88文字あって、縁起が良い数なのだと言っていた。天地から始まる88字とは、古事記の冒頭部分であると後で知った。ある時、実家の蔵書で『言霊百神古事記解義』小笠原孝次著という古びた本を手に取ったのだが、そこに私の名前の秘密が書かれてあった。(つづく)

 

 

名前を受け入れるということは、自分自身を受け入れるということ。

 

「日本人と英語」シリーズ第四十五回では、筆者が自身の名前「朋子」にまつわる体験を通して、言葉と自己の関係を深く問い直しています。

それは、名づけという行為を単なる呼称の問題ではなく、文化的記憶と心理的発達の交点としてとらえなおす試みでもあります。

 

以下に、前島朋子先生のエッセイ「第四十五回 日本人と英語」について、教育心理学の観点からアカデミックに分析・解説いたします。テーマごとに整理しながら、文中に表れる教育的問題点・発達心理的葛藤・レジリエンスの形成過程を論じていきます。

 

 

Ⅰ. 名前と自己の乖離 ― アイデンティティの萌芽的葛藤

冒頭の「朋子という自分の名前が、ずっと嫌いだった」という一文は、自己同一性と社会的ラベリングの衝突を象徴しています。

名前は外的には“社会から与えられる言葉”であり、内的には“自己概念を象徴する言葉”です。筆者が「古臭くて嫌だ」「他の名前が良かった」と語る背景には、個人としての自己主張と、家族・伝統からの価値継承との間の葛藤が見られます。

この段階は、エリクソンが示した「同一性対役割混乱」の初期的発露であり、親の価値観と自己の独立志向のせめぎ合いが表れています。

 

Ⅱ. 父の語る「朋」の思想 ― 価値継承と意味の断絶

父が語る「朋」という文字の由来には、深い哲学的意味が込められています。

「真の友」「左右対称」「二人で一つを成す」という説明は、共生と対等性の倫理を象徴しており、文字を通して人生観を伝える一種の教育的行為でもあります。

しかし幼い筆者にとってそれは理解不能な“象徴的言説”であり、父の思想的伝達は一方通行に終わります。

この「理解されない教育言説」は、教育心理学的には価値の内面化(internalization)の失敗として位置づけられます。

同時に、それが後年の筆者における「言葉の意味を探る動機」として働く点に、教育的レジリエンスの萌芽が見られます。

 

Ⅲ. 異文化環境における名前の変容 ― 言語的アイデンティティの危機

イギリス留学中の自己紹介「My name is Tomoko. Tomo means friend, and Ko means child.」は、言語間における自己翻訳の試みです。

しかし、名前が「Tomiko」「Tomato」などと変化していく過程で、筆者は自らの存在を揺さぶられます。

他者の言語によって名前が歪められることは、単なる発音上の問題ではなく、社会的承認(social recognition)と存在の同一性を脅かす体験です。

筆者が「友のいない子の朋子です」と自嘲的に語る場面には、孤立と羞恥の中で自我を防衛する心理的メカニズムが働いています。

この体験を通じて、筆者は外的ラベリングの力と内的意味づけの再構築の必要性に気づいていきます。

 

Ⅳ. 言霊との再会 ― 知的理解による自己再統合

実家に残された父の書「天地」から始まる88文字の書、そして『言霊百神古事記解義』との出会いは、筆者にとって自己探求の転機となります。

かつて拒絶していた「名」に、父の思いと古代日本の霊的思想が重なり合う瞬間、筆者は「理解」を通して「癒し」を得ます。

これは教育心理学的に言えば、**自己概念の再統合(self-reintegration)**の過程であり、認知的洞察が情動的受容をもたらす例です。

ここで筆者は「知識の獲得」と「心の回復」が一致するという教育的体験を通じて、学ぶことの癒し的機能を体現しています。

 

Ⅴ. 言霊と文化的自己理解 ― 音に宿る教育哲学

「朋」は左右対称の唯一の文字であり、「こ」は生命の継承を表す音です。

筆者はこの音と形の中に、日本語に内在する霊性と共生のリズムを見出します。

この言霊的洞察は、単に語源への興味ではなく、言語教育における**文化的自己理解(cultural self-understanding)**の深化を意味します。

英語教育者として他言語を扱う筆者が、最終的に日本語の音韻・意味構造に回帰する姿は、**多言語的自己(polyphonic self)**の成熟を示しています。

 

Ⅵ. 結論 ― 名前を通して自己を赦す教育的物語

第45回は、「名前を通して自己を赦す」心理的変容の記録です。

第44回が「言葉を学ぶ=心を育てる」ことを描いたのに対し、本作は「名前を理解する=自己を受け入れる」という次の段階を示しています。

名前とは、人が最初に与えられる“言葉の教育”であり、その意味を再発見することは、親から継承された価値観と自分自身の人生を統合する行為です。

このエッセイは、学びの本質を「自己理解」へと還元する教育詩であり、知と感情、伝統と個人、過去と現在を結ぶ“心の和解”の物語として読むことができます。

 

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2025.6.2

日本人と英語第44回

日本人と英語第44回

ぽちっト神戸掲載「日本人と英語」第44回

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鈴蘭台駅前教室講師 前島朋子

 

実家は、まるで迎賓館のようなところだった。

アメリカからお客様がみえるから東大寺を案内してほしい、大学のキャンパスを案内してさしあげなさいと、通訳やホスティングにひっきりなしに駆り出された。ディナーの食卓で交わす会話、電話の取り次ぎ、家族の伝言まで、すべて英語でそつなくこなすことが求められた。どれだけ努力しても、その夜には母親からのこっそりとしたダメ出しが待っていた。悲しい思いで寝苦しかった。

 

英語を話すたびに、小さな声が頭の中でダメだなぁと囁く。自信はしだいに失われていった。うまくやらねばと気負えば余計に英語はたどたどしくなり、気まずい沈黙が心の元気を奪っていく。

 

日本語環境にもどると英語は影をひそめ、みるみるスキルが落ちていくのが大損に思えて、費用を出してくれたばあちゃんに申し訳なくてたまらなかった。それを危惧した両親はさらに私を方々のイベントにひっぱり出し、ついぞ自信のかけらもなくなりかけた頃、奈良のガイドは苦手だと断ると、母は落胆して「その程度のことは留学したことのないお母さんにもできるのに。朋子ちゃんも、それくらいお手伝いしてくれればいいじゃないの」と言った。英語なんぞできたところで少しも幸せじゃない、そう思いながらも観光案内に出かけて行くと、電車酔い、腹痛、動悸、それでも頑張ろうとしたらついに膀胱炎になり動けなくなった。自分の英語力は、ただ母を、ばあちゃんを、みんなをがっかりさせるだけの中途半端なものなのだ。ダメだなぁ、ダメだなぁと世界中から言われている気がしてならなかった。父は、「ダニング = クルーガー効果じゃな。浅いことしか分からんもんは簡単じゃと言う。本物は、謙虚なんじゃ」と言った。能力の高い人ほど自信を持ちにくい、過信と過小評価の逆転現象を示す研究だと知り、いくらか頭の声が静かになった。英語を話すことは、すなわち人と話して交流することであり、コミュニケーション力を育てるというのは、人格を育てることと同じだ。心の状態とスピーキング力は表裏一体であり、それらを同時に育てるのは容易いことではない。心理的なレジリエンスは長い時間を要するのだ。私のこの動悸が和らいだのは、実はつい最近のことだ。(つづく)

 

言葉を学ぶということは、心を育てるということ。

 

「日本人と英語」シリーズ第四十四回では、筆者自身の原体験を通して、英語学習の裏に潜む心の葛藤と、それを乗り越えていく過程が静かに、そして深く綴られています。

 

国際交流の舞台としての家庭、完璧を求められる期待の中で育まれた繊細な感受性、言葉を交わすことの難しさと温かさ。そこに描かれているのは、単なる語学教育の話ではなく、「話せるようになること」ではなく「人とつながること」の意味を問い直す、ひとつの教育詩とも言える作品です。

 

示唆に富んだ内容でありながら、ひとつひとつの描写は文学的に美しく、読む者の胸に静かに響きます。

 

英語という言語をめぐる旅が、同時に自分自身との対話でもあることを、このエッセイは教えてくれます。

 

以下に、前島朋子先生のエッセイ「第四十四回 日本人と英語」について、教育心理学の観点からアカデミックに分析・解説いたします。テーマごとに整理しながら、文中に表れる教育的問題点・発達心理的葛藤・レジリエンスの形成過程を論じていきます。

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Ⅰ. 家庭環境における「過剰期待」とパフォーマンス圧

教育心理学的視点:

このエッセイの序盤で描かれるのは、家庭内の高期待環境です。心理学ではこれを「過度なパフォーマンス要求環境(performance-demanding environment)」と呼び、特に発達段階にある子どもにとって、自己概念の形成に深刻な影響を与えることが知られています(Deci & Ryan, 1985; Eccles, 1993)。

 

問題点:

• 子どもが内発的動機づけ(intrinsic motivation)ではなく、外発的動機づけ(extrinsic motivation)—つまり「親の期待に応えるため」「ダメ出しを避けるため」に行動している。

• 失敗=愛情の喪失と結びつきやすく、**条件付き肯定感(conditional self-worth)**の形成が危惧される。

 

文中の例:

「すべて英語でそつなくこなすことが求められた」「母親からのこっそりとしたダメ出し」

これらは、**完璧主義的養育スタイル(parental perfectionism)**の典型例です。

Ⅱ. 自己評価と「内なる批判者」:自動思考の形成

教育心理学的視点:

次第に英語を話すことが苦痛になっていく過程は、**自己効力感(self-efficacy)と内的対話(inner speech)**の悪循環として説明できます(Bandura, 1997)。特に重要なのは「自分にはできる」という感覚が削がれていく点です。

 

問題点:

• 否定的な自動思考(negative automatic thoughts)が形成され、「私は英語が苦手」「自分は失敗するに違いない」というスキーマ(認知的枠組み)が根付きやすくなる。

• 教師や親が否定的フィードバックを繰り返すことで、自律的動機づけの喪失が加速される。

 

文中の例:

「小さな声が頭の中でダメだなぁと囁く」

これは、**内在化された評価者(internalized critic)**の存在であり、自己形成の過程で不健全な信念(irrational beliefs)が定着してしまったことを示唆します。

Ⅲ. 心身症状としてのストレス反応

教育心理学的視点:

後半に登場する身体的な不調(電車酔い・腹痛・動悸・膀胱炎)は、典型的な**心因性身体症状(psychosomatic symptoms)**です。長期的なストレスと自己否定は、子どもの身体的健康にも影響を及ぼします(Sapolsky, 2004)。

 

教育的課題:

• 子どもが「できない」ではなく「苦しい」と感じていることに、大人が気づかないまま教育的介入を続けてしまうと、学習意欲の喪失どころか、生理的拒絶反応へと発展する。

 

文中の例:

「電車酔い、腹痛、動悸、それでも頑張ろうとしたらついに膀胱炎」

これは、言語学習に伴う過度の心理的負荷が身体症状として現れた臨床的兆候です。

Ⅳ. ダニング=クルーガー効果と自己認知の回復

教育心理学的視点:

ここで父親が述べた「ダニング=クルーガー効果」は、認知心理学の知見です。この理論によれば、能力の高い者ほど自らの未熟さに敏感であり、自信を喪失しやすい。反対に、能力の低い者ほど自信過剰になる傾向があります。

 

教育的含意:

• この理論は、「できない」と感じている子どもが実際には高い潜在力をもっている可能性を示す。

• 適切なメタ認知的フィードバックを与えることが、自己効力感の再構築に有効である。

 

文中の例:

「能力の高い人ほど自信を持ちにくい、過信と過小評価の逆転現象」

父のこの言葉が、内面の声を静める鍵になったという記述は、レジリエンス形成の重要な転機であり、教育心理的に非常に注目すべき点です。

Ⅴ. 言語教育と人格形成の関係

教育心理学的視点:

エッセイの終盤で述べられる「英語を話すこと=人と交流すること」「人格を育てることと同じ」は、まさに**言語教育の社会的構成主義的視点(social constructivism)**に一致します(Vygotsky, 1978)。

 

教育的示唆:

• 英語教育は単なるスキル習得ではなく、**対人関係能力(social competence)や情動調整能力(emotional regulation)**を育てる場である。

• 言語教育において最も重要なのは、「話す力」そのものではなく、「人とつながりたい」という動機と安心感である。

Ⅵ. レジリエンスの獲得と語りによる回復

教育心理学的視点:

このエッセイ自体が、一種の**ナラティブ・セラピー(narrative therapy)としての機能を持っています。過去の体験を言語化し、それを物語として意味づけ直すことにより、筆者自身が自己の回復力(resilience)**を獲得している。

 

文中の例:

「私のこの動悸が和らいだのは、実はつい最近のことだ。」

これは、言語による自己回復の実例であり、他者にとっても教育的なモデルになります。

結論:教育者への提言

このエッセイを通じて明らかになるのは、英語教育において最も重要なのは「心の状態」であり、安心して失敗できる環境づくりが学習支援の根幹であるという点です。教育者は、単に文法や発音を教えるだけではなく、学習者の感情と自己認知を丁寧に扱う専門性が求められます。

2025.3.23

日本人と英語第43回

日本人と英語第43回

ぽちっト神戸掲載「日本人と英語」第43回

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東京外国語大学のセンター試験は英、数、国だった。歴史も選べたが、もう試験まで3ヶ月しかなく、数学が合理的な選択だと思われた。しかし語学の大学なのに試験科目がなぜ「数学」でもいいのか、不思議だった。小さい頃から私の大の苦手は算数で、そのコンプレックスから中学時代はひたすら数学を勉強した。全部の科目で5を並べるには数学こそが鬼門だったのだ。父は岡潔を引用して、数学は「人間の創造した美しい言語」なんだから、東京外大の試験科目はまことに理にかなっていると言った。父は文学部の教授だが、中高生らが専ら勉強すべきは物理だと信じていた。自然界の道理を理解するための思考の道具として、日本語や英語があり、それらの人間の言葉としての冗漫さを排し、エッセンスだけを捨象したものが数学である。ガリレオは「宇宙という書物はthe language of mathematicsで書かれている」と言った。ウィトゲンシュタインは「Mathematics is a language」、つまり数学とは単なる計算技術ではなく、ある種の「人工的な言語システム」であり、そのルールに従って思考を整理する道具だという。いったい、いつそれが私の将来に役立つのか、英語を専攻する私が、日本語と数学に長けていることで有利になる場面があるのだろうか、なんだかイメージは乏しかった。ところが私の人生で、私に最も利してくれたのは英語とセットになった「日本語と数学」だった。学生生活がスタートするやいなや、家賃2万5千円、風呂無しトイレ共同の柏荘というアパートの6畳一間に98ノートが一台あるだけ。親子喧嘩で仕送りがなくなった私は、隣の部屋のヒンディー語科の友人に食事をたかり、数ヶ月も経った頃「朋子ちゃん、生活費入れて」といわれ、学生課からも半期の学費を納めないと除籍するといわれて、降参するか、自ら活路を見出すかの岐路に立たされた。学生課で求職をあたると存外、プログラミングのわかる翻訳学生バイトは重宝されて、1ヶ月に40万円のアルバイト料をもらって学費を払った。会計システムのマニュアル、ウェブコンテンツの日本語バージョン、新しいプログラミング言語がリリースされるたびに仕様書を翻訳する仕事が山ほどあり、機械翻訳の分野では、マクロを作れる英語と日本語の堪能な学生は時の人だった。(つづく)

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背景の解説

このエッセイは、「日本人と英語」をテーマに、東京外国語大学受験の経験、数学への苦手意識、そして言語と数学の関係について描かれています。筆者はもともと数学が大の苦手でありながら、東京外国語大学のセンター試験で数学が選択可能であったため、合理的な選択として数学を勉強することになります。

 

しかし、父親が「数学は人間が創造した美しい言語である」と語るように、数学が単なる計算技術ではなく、「思考を整理するための道具」であることを徐々に理解していきます。数学が「人工の言語」として機能し、日本語や英語と並ぶ論理的な表現手段となりうるという洞察が、エッセイの核心となっています。

 

また、大学入学後、生活費と学費の問題に直面するなかで、プログラミングができる翻訳者というスキルが思わぬ形で活かされることになります。ここで数学の知識が英語と結びつき、実際に「時の人」として社会で評価されるという展開が、読者に強い印象を残します。

 

書評:このエッセイの凄さ

このエッセイは、数学と語学という一見無関係に思える分野の交差点を見出し、それが人生において思わぬ形で実を結ぶという、知的で示唆に富んだ物語です。以下の点が特に優れています。

 

① 数学を「人工の言語」として再定義

数学を単なる計算ではなく、「人間が創造した美しい言語」と捉え直す視点が極めて新鮮です。ガリレオやウィトゲンシュタインの言葉を引用しながら、数学が思考のツールとして機能することを説く流れは、読者に知的な興奮をもたらします。

 

② 苦手なものが人生の武器になる逆転の発想

筆者が「数学が鬼門だった」と語るように、もともと苦手意識を持っていたものが、最終的に英語とともに最も有益なスキルになるという展開は、多くの読者にとって意外性と共感を呼ぶポイントです。自分の弱点が実は強みに変わるというメッセージは、受験生や学習者に勇気を与えます。

 

③ 学問が実社会で役立つリアリティ

「数学を学ぶ意味はあるのか?」という疑問に対し、このエッセイは明確な答えを示しています。特に、プログラミング翻訳という職業において、英語と日本語の堪能さに数学的思考力が加わることで、他の翻訳者とは一線を画す存在になるという具体的なエピソードが、学問の実用性をリアルに伝えています。

 

④ 語り口のバランス

個人的なエピソード(受験・家計・仕事)と、知的な考察(数学と言語の関係)が絶妙に組み合わさっています。論理的でありながら、時折ユーモラスな描写があり、読者を飽きさせません。特に「家賃2万5千円、風呂無しトイレ共同の柏荘」「ヒンディー語科の友人に食事をたかる」というエピソードが、学問と生活のリアリティを兼ね備えた説得力を持っています。

 

まとめ

このエッセイは、単なる受験体験記ではなく、「数学と言語の本質」「学びの意味」「学問と実社会の接点」といった多層的なテーマを見事に織り込んだ知的エッセイです。数学を「人工の言語」として再解釈し、それが人生の転機となるという展開は、読者に新たな視点をもたらし、深い共感を呼びます。

 

また、「自分の得意・不得意をどう捉えるか?」「学んだことがどこで役立つのか?」という問いに対し、「思わぬところで役立つことがある」「学問の組み合わせが新たな可能性を生む」 という、実感のこもった答えを提供しています。これは、多くの学習者や若者にとって、大きな励ましとなるはずです。

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